葉山町上山口地区の浦賀道【歴旅コラム】
寛永元年(1624)三崎に番所が置かれ、江戸への海の関所とした。享保5年(1720)下田から奉行所が浦賀に移転し、東海道の戸塚から鎌倉、葉山を経由した「浦賀道」が賑わうようになった。更に天保8年(1837)以降嘉永7年(1854)までに4度にわたるアメリカ船の浦賀来航もあり、江戸と浦賀を結ぶ「浦賀道」が重要視されるようになった。この街道の面影を一番残す上山口地区には、貴重な文化財も残されているので、その中から幾つかを紹介する。
不捨山摂取院新善光寺は鎌倉名越から移転したと伝わる浄土宗の寺院で、『皇国地誌残稿』に相鎌倉郡乱橋材木座村浄土宗光明寺の末寺で建仁の頃創建とある。また、『三浦古跡集』には、武田信玄が川中島から移したと伝わり、また、三浦家の建立とも伝わる。本尊は善光寺式阿弥陀三尊立像で、善光寺の分身仏は443、善光寺を正式寺名とする寺院は119ケ寺あると云われている。新善光寺の四脚門、本堂と厨子は神奈川県指定文化財、前立阿弥陀三尊立像は葉山町指定文化財である。
不捨山摂取院新善光寺は鎌倉名越から移転したと伝わる浄土宗の寺院で、『皇国地誌残稿』に相鎌倉郡乱橋材木座村浄土宗光明寺の末寺で建仁の頃創建とある。また、『三浦古跡集』には、武田信玄が川中島から移したと伝わり、また、三浦家の建立とも伝わる。本尊は善光寺式阿弥陀三尊立像で、善光寺の分身仏は443、善光寺を正式寺名とする寺院は119ケ寺あると云われている。新善光寺の四脚門、本堂と厨子は神奈川県指定文化財、前立阿弥陀三尊立像は葉山町指定文化財である。
八幡山法林院大昌寺は天文14年(1843)に三浦山口郷を支配していた冨塚善四郎が中興したとされるが、南北朝時代の初期には、善四郎の祖である戸塚八郎衛門宗達が庵室に阿弥陀如来を安置し、八幡宮を勧請したとされ、開基を戸塚八郎衛門宗達としている。
冨塚善四郎は後北条家初期の武士で、その戒名「太虚院殿了翁宗達禅定門神儀」は、玉縄城初代城主で北条早雲の次男氏(うじ)時(とき)の戒名「太虚院殿了翁宗達大禅定門神儀」とあるので、戸塚家では二人が同一人物と解釈している。
街道にそって栗坪の庚申塔がある。葉山町の指定文化財とされるのが3基のうちの中央塔で、舟型、安山岩で元禄4年(1691)の造立。この塔は来迎阿弥陀如来を主尊としている。
冨塚善四郎は後北条家初期の武士で、その戒名「太虚院殿了翁宗達禅定門神儀」は、玉縄城初代城主で北条早雲の次男氏(うじ)時(とき)の戒名「太虚院殿了翁宗達大禅定門神儀」とあるので、戸塚家では二人が同一人物と解釈している。
街道にそって栗坪の庚申塔がある。葉山町の指定文化財とされるのが3基のうちの中央塔で、舟型、安山岩で元禄4年(1691)の造立。この塔は来迎阿弥陀如来を主尊としている。
猪俣・岡部両将の墓とされる鎌倉前期の石造五輪塔2基も、葉山町指定文化財である。凝灰岩製で鎌倉前期のものとされている。現在地より約100m南を流れる下山川近くにあったものが、享保4年(1719)現在地に移された。鎌倉時代前期の武将、猪俣小平六範綱と岡部六弥太忠純の墓と伝わるが、それを語る資料はない。『新編相模国風土記稿』には「土地の者が猪俣小平六範綱の碑と云うが猪俣氏は武州の姓で疑わしい」と述べ、また岡部六弥太のことは書かれていない。『三浦古壽録』や『三浦郡志』などでも岡部六弥太には触れていない。この両将を有名にしたのは『平家物語』である。一の谷の戦で薩摩守忠度を打ち取った二人が、ここで自決したというわけだが、『吾妻鏡』には両将が自害したとされる3年後、東大寺供養のおり頼朝の供奉人の中に猪俣小平六と岡部六弥太の名前が載っており、ここには三浦義澄の二男山口有綱の館跡があることから、山口氏の所縁のものではないかと考えられている。
寺前の庚申塔二基のうち向かって右側は寛文2年(1662)の造立で葉山町指定文化財である。唐破風型の笠が付き、一面六臂青面金剛の彫刻が施されている。塔身は比較的に細めで、優美である。
記事提供:葉山町文化財研究会