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鶴見の旧東海道・間の宿を歩く【歴旅コラム】

鶴見の旧東海道・間の宿を歩く【歴旅コラム】

旧東海道は、現在の横浜市鶴見区を北東から南西に貫いて走っている。区内の長さは約5.5km。江戸時代には、鶴見は川崎と神奈川の間の宿(あいのしゅく)として賑わった。日本橋から18kmの川崎宿。そこを出ると八丁畷が続く。畷は畦道のことで、現在の川崎市川崎区小川町から市場上町交差点(川崎市と横浜市鶴見区の境)までの八丁(872m)が、それに当たる。

江戸時代、市場上町交差点には家康の命で造られたといわれている二ケ領用水が流れ、夫婦橋と呼ばれる橋が架かっていた。さらに進むと、江戸名所図会にも載せられた「市場観音(一心山専念寺)」(浄土宗・江戸初期創建)がある。
市場観音江戸名所図会
市場一里塚

この観音は紫式部の念持仏とされ、多くの参拝者で賑わった。続いて「市場一里塚」がある。一里塚は日本橋を起点に1里(約4km)ごとに設けられているが、市場は5番目の一里塚で、日本橋からの距離は20km。片側のみが現存する。

市場村では、室町後期には市が開かれた。江戸中期以降は鶴見橋近くで米まんじゅうを商う店が多く、なかでも鶴屋と亀屋が有名だった。江戸後期には、市場村には40の米まんじゅうの店があったという。米まんじゅうは、鉄道の開通などで人の往来が減り、いったん姿を消したが、昭和57年(1982)に現代の味覚に合わせた「よねまんじゅう」として復活、「かながわ名産100選」にも選定されている。

鶴見橋江戸名所図会

「鶴見橋」(現・鶴見川橋)を渡ると鶴見村に入る。「鶴見橋」は、江戸初期に架けられた橋で、江戸を出て最初に渡る橋であった(長さ45m、幅5.4m)。その後、何度も架け替えられ、大正末に第一京浜国道に架けられた橋が、鶴見橋となったため、鶴見川橋と改名した。平成9年(1991)にも架け替えられた(長さ120m、幅12m)。風光明媚な場所で、江戸名所図会にも載っている。

橋の近くには「鶴見橋関門」があり跡が残っている。安政5年(1859)、横浜が開港し、居留地が設けられた。トラブルを避けるため、各地に関門や番所が置かれた。文久2年(1862)の生麦事件後は関所や番所の数が増やされ、川崎、保土ヶ谷間に20の番所が設けられた。「鶴見橋関門」は5番番所となった。

  • 信楽茶屋江戸名所図会
「鶴見橋関門」の先には、「信楽茶屋」(享保年間創業)があった。梅干、梅漬け生姜が名物で、旅人、馬人足、駕籠かき等で賑わった。その様子は江戸名所図会にも書かれている。

その先にある「サボテン茶屋」も有名で、力餅等を商っていた。江戸初期の創業で、5代目店主が文政の頃店先に置いたサボテンが人気を呼び、繁盛した。しかし、明治44年(1911)の大火で焼失した。

しばらく行くと生麦村だ。鶴見村との境には、「黒熊茶屋」があって、文政7年(1824)頃から牝の月輪熊を飼って、芸を仕込み、客寄せをした。生麦村には「白熊茶屋」もあり、文政9年(1826)にシーボルトが、オランダ商館長のお供で江戸に来た際、2頭の熊を見ている。
白熊神社碑
生麦事件発生場所碑

生麦村は漁師村で、月に3度江戸城に魚介類を献上していた。また横浜が開港し、居留地ができると、海が近く風光明媚な生麦村は、外国人の人気スポットとなり、東海道沿いには茶屋をはじめ沢山の店が立ち並ぶようになった。

しかし、この村で生麦事件が起き、3名の英国人が死傷した。この事件を機に、明治維新へと日本は発展していくこととなる。3名のうちの一人、リチャードソンの死を悼む碑が、明治16年(1883)、鶴見神社の宮司であった黒川荘三により、死亡現場に建てられた。

  • 生麦事件碑
記事提供:鶴見みどころガイドの会

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