かながわの古道【歴旅コラム】
矢倉沢往還、赤坂から小園へ、渡辺崋山が辿った「お銀さま」古道探索
この時、矢倉沢往還の赤坂から小園へ入り、“お銀さま”の家を訪ねてから市内の小園橋へ至り、そこから海老名市の国分へ進んだことは、『游相日記』に詳しく述べられておりよく知られているところです。
渡辺崋山が子供の頃は、田原藩士であった父が病気がちであったこと、加えて藩の財政困難による減俸で非常に貧しかったと言われています。それを助けたのが、得意な絵を描くことでした。父の計らいで金子金陵、谷文晁に弟子入りし、持ち前の努力で頭角を現しました。独学で西洋画の陰影法や遠近法を学び、肖像画においては高い写実表現を確立しました。国宝に指定されている『鷹見泉石像』は、今も輝きを放っています。
崋山は藩政の中枢には出来るだけ近寄らず、既に名を上げていた画業に専念したかったようですが、かないませんでした。天保3年(1832)海防事務掛として取組むべきことは沿岸防衛でしたが、このころ、東海道宿の助郷役が、民にとって大変な負担となっていました。外国船に備える為には人が必要で、田原藩は助郷免除を嘆願し許可されました。
天保6年(1835)、やがて田原藩にも及ぶであろう天保の大飢饉の予防策を実施しました。それは、飢饉に備えてお米を蓄える「報民倉」の建設を行なったことです。その結果、3年後の大飢饉には、一人の餓死者も出しませんでした。
しかし、天保9年(1838)モリソン号が浦賀に来航した際、問答無用に追い返した事件が起きました。崋山は、この幕府の無謀さに、日本の将来を憂い対外政策を批判し「慎機論」を書き記しました。外国船打払令施行の日本、その行く末を憂い西欧諸国との交流を訴える蘭学者が弾圧された「蛮社の獄」では、その当事者として幕府の追及を受けた崋山。幕府は、蘭学者が幕府の政治に介入することを嫌っており、罪をでっち上げ逮捕されます。『慎機論』が見つかり、崋山は田原で蟄居を命じられました。そして、後に門弟達の所業が藩主にまで累を及ぼすことを憂い、天保12年(1841)自刃しました。
そんな渡辺崋山が壮年期192年前に辿った「お銀さまコース」の古道を歩いてみませんか。
(記事はNHK知恵泉「渡辺崋山」人を愛するまなざし・2023.7.18 も参考にしました)
記事提供:綾瀬市史跡ガイドボランティアの会