川崎宿中興の人 田中休愚の足跡を訪ねて ♪六郷渡れば 川崎の 万年や~万年や~♪【歴旅コラム】
東海道川崎宿と大師道
川崎宿は、東海道五拾三次のうち日本橋から二つ目の宿場です。幕府が慶長6(1601)年に東海道を制定した後、他の宿より遅れて元和9(1623)年に起立しました。
開設されたばかりの川崎宿は、1カ村40戸足らずの寒村で大変貧しく、本陣などはありませんでしたが、寛永6(1629)年、幕府から1000両が交付され、田中仮本陣や12軒の旅籠ができてようやく宿場らしくなりました。以来、川崎宿は上方からの旅人にとって、六郷の渡しを控えた最後の宿泊地として賑わいました。
川崎宿が賑わったもう一つの理由は、厄除けで知られた川崎大師の存在があります。古くから庶民の信仰を集めた川崎大師は、特に11代将軍徳川家斉が文化10(1813)年に公式参拝して以来、将軍家の帰依を受け、一層広く信仰されるようになりました。日帰り参詣のできる関東屈指の霊場として、江戸からの参詣客が絶えませんでした。川崎宿は川崎大師参詣(大師道)の拠点として栄えました。
開設されたばかりの川崎宿は、1カ村40戸足らずの寒村で大変貧しく、本陣などはありませんでしたが、寛永6(1629)年、幕府から1000両が交付され、田中仮本陣や12軒の旅籠ができてようやく宿場らしくなりました。以来、川崎宿は上方からの旅人にとって、六郷の渡しを控えた最後の宿泊地として賑わいました。
川崎宿が賑わったもう一つの理由は、厄除けで知られた川崎大師の存在があります。古くから庶民の信仰を集めた川崎大師は、特に11代将軍徳川家斉が文化10(1813)年に公式参拝して以来、将軍家の帰依を受け、一層広く信仰されるようになりました。日帰り参詣のできる関東屈指の霊場として、江戸からの参詣客が絶えませんでした。川崎宿は川崎大師参詣(大師道)の拠点として栄えました。
六郷の渡し跡
多摩川の下流域は、六郷川と呼ばれ、東海道の交通の難所でした。そこで将軍徳川家康は慶長5(1600)年に江戸三大大橋(千住大橋・両国橋)といわれた六郷大橋を架けましたが、貞享5(1688)年の大洪水で流されてから明治時代になるまでの約200年の間、船渡しとなりました。
この船渡しは、初めは江戸の商人が幕府から請け負っていましたが、宝永6(1709)年に田中休愚(たなかきゅうぐ)の働きにより、六郷川の渡船権が川崎宿に許可されました。
これによって伝馬の負担などに苦しんでいた川崎宿の財政が立て直されました。
この船渡しは、初めは江戸の商人が幕府から請け負っていましたが、宝永6(1709)年に田中休愚(たなかきゅうぐ)の働きにより、六郷川の渡船権が川崎宿に許可されました。
これによって伝馬の負担などに苦しんでいた川崎宿の財政が立て直されました。
田中本陣跡・田中休愚
田中本陣は、川崎宿開設の5年後の寛永5(1628)年に造られました。建坪は231坪で幕末まで続きました。田中本陣ができるまでは、砂子の妙遠寺が本陣の代わりをしていました。
田中本陣の田中休愚は農政家として著名です。武蔵国多摩郡平沢村(あきる野市)の農家に生まれ、20歳で川崎宿本陣・田中兵庫の養子となり、宝永元(1704)年に42歳で家督を継ぎ、本陣・宿名主・問屋の三役を兼務しました。
翌年には相模・駿河方面へ出向き、馬入川、天龍川、富士川の渡船経営の実態をつぶさに調査し、その収益による川崎宿再建の見通しを立てました。宝永6(1709)年に幕府からの助成金3,500両と六郷川の渡船請負権を得て、宿開設以来困窮していた宿場財政を建て直しました。
享保6(1721)年には幕政のあり方を『民間省要(みんかんせいよう)』に著し、将軍徳川吉宗に認められて幕府普請御用役に抜擢され、荒川、多摩川、酒匂川の治水と改修工事にあたりました。享保14(1729)年に幕府の勘定支配格に任ぜられますが、惜しくもその年に68歳で亡くなりました。
稲毛神社には、田中休愚の業績を物語る史跡が残されています。
田中本陣の田中休愚は農政家として著名です。武蔵国多摩郡平沢村(あきる野市)の農家に生まれ、20歳で川崎宿本陣・田中兵庫の養子となり、宝永元(1704)年に42歳で家督を継ぎ、本陣・宿名主・問屋の三役を兼務しました。
翌年には相模・駿河方面へ出向き、馬入川、天龍川、富士川の渡船経営の実態をつぶさに調査し、その収益による川崎宿再建の見通しを立てました。宝永6(1709)年に幕府からの助成金3,500両と六郷川の渡船請負権を得て、宿開設以来困窮していた宿場財政を建て直しました。
享保6(1721)年には幕政のあり方を『民間省要(みんかんせいよう)』に著し、将軍徳川吉宗に認められて幕府普請御用役に抜擢され、荒川、多摩川、酒匂川の治水と改修工事にあたりました。享保14(1729)年に幕府の勘定支配格に任ぜられますが、惜しくもその年に68歳で亡くなりました。
稲毛神社には、田中休愚の業績を物語る史跡が残されています。
稲毛神社に残る田中休愚ゆかりの石造物
記事提供:NPO法人 かわさき歴史ガイド協会