旧東海道戸塚宿を歩く【歴旅コラム】
戸塚宿は江戸日本橋から5番目の宿場で、江戸を立ち最初の宿泊地ともなり、鎌倉道などへの分岐点でもありました。矢部・吉田・戸塚の 3町に問屋場があり、本陣・旅籠などが集中した戸塚町が宿場の中心で、範囲は見附間の約2.2km。天保14年(1843)の『東海道宿村大概帳』に記録されたその規模は、戸数 613軒、人口2906人、本陣2、脇本陣3、旅籠屋75などとなっていました。戸塚宿は、東海道に宿駅制が敷かれた慶長6年(1601)の3年後、慶長9年(1604)に公認の宿場として指定されました。
戸塚駅東口を出て、柏尾川沿いに北上すると吉田大橋に至ります。これは、広重の浮世絵にも描かれた歴史ある橋です。さらに北上すると、右手の妙秀寺は室町期創建といわれ、境内には広重の浮世絵に描かれた道標のオリジナルが保存されています。
戸塚駅東口を出て、柏尾川沿いに北上すると吉田大橋に至ります。これは、広重の浮世絵にも描かれた歴史ある橋です。さらに北上すると、右手の妙秀寺は室町期創建といわれ、境内には広重の浮世絵に描かれた道標のオリジナルが保存されています。
さらに北上すると、日本橋から10番目に当たる吉田一里塚跡や江戸見附跡がありますが、こちらが戸塚宿の出入口となります。
ここで京都方面へ引き返し、吉田大橋を渡ると右手に善了寺に至ります。江戸善福寺の僧が開いたとされ、現在では独特の建築様式をもち境内にはカフェも備えています。
JR東海道線を渡り、駅西口方面に進むと清源院に着きます。家康の側室お万(清源院尼)が元和年間に創建したといいます。芭蕉句碑『世の人のみつけぬ花や軒のくり』や幕末の心中碑などがあります。
JR東海道線を渡り、駅西口方面に進むと清源院に着きます。家康の側室お万(清源院尼)が元和年間に創建したといいます。芭蕉句碑『世の人のみつけぬ花や軒のくり』や幕末の心中碑などがあります。
さらに南下すると、戸塚宿に二つあった本陣のうちのひとつ内田本陣跡の案内板があります。本陣は大名・勅使・公卿・宮門跡・公用の幕府役人などだけが宿泊や休息できました。この本陣は畳数が152畳あったといいます。さらに進むと、いくつかの脇本陣跡を見てもう一つの本陣、澤邊本陣跡の案内板があります。こちらは旧名主澤邊宗三が幕府に強く働きかけて設置され、明治天皇東下の際には行在所となりました。
疫病除けの神である八坂神社は、牛頭天王を勧請したのが始まりで「お天王様」と親しまれ、夏には「お札まき」の行事が行われ、市無形民俗文化財に指定されています。
冨塚八幡宮は戸塚の総鎮守社。源頼義・義家が奥州へ向かう途中の平安末期に社殿を造営したといいます。神社の名の「冨塚」が戸塚の地名の語源になったともいわれます。芭蕉句碑『鎌倉を生きて出けむ初かつお』があります。社殿裏山は、前方後円墳となっており石碑が建ちます。
冨塚八幡宮は戸塚の総鎮守社。源頼義・義家が奥州へ向かう途中の平安末期に社殿を造営したといいます。神社の名の「冨塚」が戸塚の地名の語源になったともいわれます。芭蕉句碑『鎌倉を生きて出けむ初かつお』があります。社殿裏山は、前方後円墳となっており石碑が建ちます。
上方見付跡(大坂下)は、江戸方見附から約2.2kmの距離にある戸塚宿京方の出入口です。現在は、昔と同じように京に向かって左に松の木、右に楓の木が植えられています。大坂を登り切ると、松並木の間から右手に富士山が眺望でき、この景色は多くの浮世絵に描かれました。
記事提供:NPO法人 神奈川歴遊クラブ