徳川家康公が愛でた金藏院の紅梅【花のコラム】
金藏院(こんぞういん)出立の際、境内の香り高く美しく咲く紅梅に心を留めた徳川家康が、その枝を一枝手折って江戸城に持ち帰ったと言われています。その紅梅は「家康公御手折梅」と称されました。
■紹介するスポット
金藏院「御手折梅」
※本コラムは、かながわガイド協議会構成団体である「NPO法人神奈川区いまむかしガイドの会」より寄稿いただきました。
金藏院と家康と紅梅
神奈川宿には、宿内最古で唯一の勅願寺(天皇や上皇により、国の安泰・皇室の繁栄などを願って建てられた寺)である、神鏡山東曼荼羅寺金藏院(以下、金藏院という)があります。金藏院は醍醐三宝院の始祖勝覚僧正が開基となり、寛治元年(1087)に創られました。徳川家康公から寺領10石の御朱印を賜りました。
また、将軍の宿泊休憩所である神奈川御殿が出来る前は、将軍の宿泊休憩所でもありました。家康公は花や植物を愛した将軍としても有名ですが、金藏院出立の際、境内の香り高く美しく咲く紅梅に心を留め、その枝を一枝手折って江戸城に持ち帰ったと言われています。その紅梅は「家康公御手折梅」と称されました。
以来住職は、梅の咲く毎年1月に、枝ぶりの良い紅梅一枝を携えて江戸城に献上していたと言われています。紅梅寺とも言われる由縁です。ご住職によると現在の木は、4~5代目ということです。
また、将軍の宿泊休憩所である神奈川御殿が出来る前は、将軍の宿泊休憩所でもありました。家康公は花や植物を愛した将軍としても有名ですが、金藏院出立の際、境内の香り高く美しく咲く紅梅に心を留め、その枝を一枝手折って江戸城に持ち帰ったと言われています。その紅梅は「家康公御手折梅」と称されました。
以来住職は、梅の咲く毎年1月に、枝ぶりの良い紅梅一枝を携えて江戸城に献上していたと言われています。紅梅寺とも言われる由縁です。ご住職によると現在の木は、4~5代目ということです。
梅のルーツ
梅は中国原産の花木で、日本に伝来したのは3世紀終わり頃ともいわれています。
日本の文献に「梅」という文字が最初に現れるのは、751年の「懐風藻」という漢詩集です。また、万葉集にも「梅」を題材にした和歌が数多くあります。
平安時代の貴族で学問の神様として名高い菅原道真の「飛梅伝説」は有名ですね。一説によると、「枕草子」を執筆した平安時代の作家・歌人の清少納言が愛でた花でもあったようです。
日本の文献に「梅」という文字が最初に現れるのは、751年の「懐風藻」という漢詩集です。また、万葉集にも「梅」を題材にした和歌が数多くあります。
平安時代の貴族で学問の神様として名高い菅原道真の「飛梅伝説」は有名ですね。一説によると、「枕草子」を執筆した平安時代の作家・歌人の清少納言が愛でた花でもあったようです。
梅の花言葉
梅はバラ科に属し、1月下旬から2月の非常に寒い時期に咲き始める植物です。江戸時代には冬に咲く梅が新春を祝う花として親しまれたようです。
また、梅の花言葉は「忠実」 「高潔」 「忍耐」の3つ。家康公にはピッタリですね。
さらに付け加えると、紅梅の花言葉は「優美」「艶やか」。上品な美しさや艶やかな香りを持った花を咲かせます。
また、梅の花言葉は「忠実」 「高潔」 「忍耐」の3つ。家康公にはピッタリですね。
さらに付け加えると、紅梅の花言葉は「優美」「艶やか」。上品な美しさや艶やかな香りを持った花を咲かせます。
地誌「金川砂子(かながわすなご)」にも
金川砂子は、生麦松原から保土ヶ谷入りまでの東海道沿道の風景を描き、その絵図に詩歌を記し、神奈川宿内の名所旧跡の由来、神社仏閣の沿革等を執筆した神奈川宿の地誌です。文政7年(1824年)8月に出版されました。著者は、神奈川仲之町に住む「煙管亭喜荘(きせるていきそう)」です。
金川砂子では「御手折梅」は本堂の前にあると書かれています。
その「御手折梅」のそばには、松尾芭蕉の「梅みよと 引きてとむるや袖ヶ浦」の句が添えられています。
金藏院の描かれた金川砂子の中には、「大君の恵みいただく 御手折の梅の薫りの袖ヶ浦かぜ」と書かれています
金川砂子では「御手折梅」は本堂の前にあると書かれています。
その「御手折梅」のそばには、松尾芭蕉の「梅みよと 引きてとむるや袖ヶ浦」の句が添えられています。
金藏院の描かれた金川砂子の中には、「大君の恵みいただく 御手折の梅の薫りの袖ヶ浦かぜ」と書かれています
※上の図は金川砂子「金藏院」です。わかりやすくするために色をつけています。