開港場に咲く横浜のバラ【花のコラム】
開港場であった横浜の中で、市民ともども歴史に翻弄されながら力強く根付き、現在も町中を華やかに彩るバラ。その歴史と見どころをご紹介します。
■紹介するスポット
根岸森林公園、横浜植木株式会社、野毛山公園、横浜市児童遊園地、山下公園、イタリア山庭園、アメリカ山公園
※本コラムは、かながわガイド協議会構成団体である「NPO法人横浜シティガイド協会」より寄稿いただきました。
アイルランド民謡「庭の千草」
1884(明治17)年に編纂された小学唱歌集のなかに、アイルランド民謡「庭の千草」がある。翻訳された歌詞には白菊とあるので、その原曲は「The Last Rose Of Summer」(夏の名残のバラ)であることを知り、驚きとともに一枚の写真が脳裏に浮かび上がってきた。当会が実施する山手ガイドの折に参加者に見せる資料だが、洋館の玄関ポーチから3人の家族が庭一面に植えられたバラを眺めている。衣服からして西洋人には見えない。明治時代の後半になると、バラは日本人にも愛好されたことがわかる。
吉川英治の自叙伝
作家・吉川英治の自叙伝「忘れ残りの記」に書かれてあるのは、1899(明治32)年、遊行坂に住んでいたころ、近くの根岸競馬場(現根岸森林公園)で人気を博していたジョッキ-・神崎利木蔵に憧れ、すぐ近くにあった神崎の洋風邸宅の様子や袖垣にバラを絡ませた広いガーデンをうっとりと眺めたという追憶である。
いつから横浜に
バラがいつ頃横浜にお目見えしたのか気になるところだが、横浜開港とともに貿易商か外国人の誰かが横浜に持ち込んだらしい。その後、輸入元の資料によると、それまでユリ根の輸出が盛んに行なわれていて、代わりに輸入されたのがバラであり、山手のイギリス人やフランス人の庭で栽培されていた。「いばらボタン」や「洋ボタン」と呼ばれ、はじめは日本人には手の届かない花であったが、明治の中頃以降は、商人や職人を通じて日本人の庭にも植えられるようになった。
苦難の先の温かい援助
ところが、1923(大正12)年に関東大震災に襲われ、横浜の人々と同様にバラの植栽も壊滅的な打撃を受けてしまった。回復の契機になったのは、アメリカ(シアトル)からの義援金に対するお礼として昭和4年に桜の苗木を3,500本送ったところ、返礼にバラの苗3,000本、200種類が贈られてきたことであった。この「日米親善のバラ」は野毛山公園や横浜市児童遊園地などに植えられ、中でも野毛山公園は日本初の大規模なバラ園になった。アメリカの支援は第2次世界大戦後の1949(昭和24)年にもサンフランシスコからバラの苗が送られ、大戦終結を記念して「ピース」と名付けられたバラなどが市民のすさんだ気持ちを癒していった。
バラの魅力
バラの花には群を抜いて人々を引きつける魅力があるようだ。何と言っても見目形がうるわしい!女性の美しさを表現するのにも「バラ色の頬」と言うし、バラの香水は気持ちをリラックスさせる。また、100本もの花束をプレゼントされたときには感激し、人々は身近にバラの素晴らしさを充分に感じている。
横浜のバラ
横浜のバラは開港、関東大震災、第二次世界大戦と3つの大きな波を市民とともに乗り越え、現在も開港都市横浜にふさわしい存在感で横浜のまちを彩っている。横浜市の花がバラに決まったのは1989(平成元)年開催の「横浜博覧会」会場である。「はまみらい」「ローズヨコハマ」といった横浜生まれのバラもあり、春秋のバラのシーズンになると山下公園、港の見える丘公園、イタリア山庭園、アメリカ山公園は毎年のように大勢の観光客やバラの愛好家で賑わう。