丘陵地のみかん栽培と交通アクセス改善の歴史【花のコラム】
湯河原の地は源頼朝が源氏再興の初戦で大敗し、逃走した箱根外輪山の南麓。温暖な山地は江戸時代にみかん栽培に活路を求め、又、温泉の恵みを活かすため交通不便地の対策を鉄道に求めた。
■紹介するスポット
湯河原町の花「みかん」
※本コラムは、かながわガイド協議会構成団体である「湯河原観光ボランティア」より寄稿いただきました。
みかんの花咲く丘
黒潮の相模灘に面し、三方を箱根外輪山に囲まれる湯河原は温暖な気候に恵まれ、東海道線の車中からの景色は童謡の「みかんの花の咲く丘」の歌詞を連想させます。みかんの花は5月上旬の連休明けから下旬頃に咲き、みかん畑の周囲には花の香りが漂います。みかん園の多い吉浜の丘には与謝野晶子の愛した「真珠荘」や、谷崎潤一郎の終の住処となった「湘碧山房」もありました。
「たそがれに咲ける蜜柑の花一つ 老いの目にも見ゆ星の如くに」谷崎潤一郎
「たそがれに咲ける蜜柑の花一つ 老いの目にも見ゆ星の如くに」谷崎潤一郎
一年中収穫できる柑橘類
湯河原では温州みかんを代表とする柑橘類80余種を1年を通じて楽しむことができ、10月~12月にはみかん狩りも行われています。昭和40年代前半に最盛期を迎え、酸味が強かった湯河原みかんは品種改良で甘くなりました。湯河原生まれのみかんには「藤中温州」、「大津四号」等があります。
湯河原温泉の土産「みかん最中」
地元産のみかんを活用した「みかん最中」が和菓子屋「味楽庵」から発売され、神奈川県の指定銘菓として湯河原の名産品 “made in yugawara” にも指定されています。甘酸っぱいみかん味の白餡入りで、割るとみかんの様に2個に分かれる所が人気を集めています。店先には人車鉄道があり、店の目印にもなっています。
交通の不便を解消した人車鉄道
明治時代の初期、東海道線は箱根山の山塊を外側に迂回する現在の御殿場線ルートで湯河原、熱海は鉄道から見放されていました。そのため熱海の旅館主が中心となり、湯治客を呼ぶために人が押してレールの上を走る人車鉄道が敷かれました。明治29年(1896)に、小田原・熱海間の全線が開通し、日清・日露戦争傷病兵の療養所に指定された湯河原温泉に、傷病兵を送るのにも活用されました。
来湯する文人墨客の増加
交通が便利になったので、文人墨客が多数訪れ小説の舞台等にも取り上げられるようになりました。文人の先駆けは国木田独步で、「湯河原ゆき」の中で人車鉄道への乗車経験を述べています。人車鉄道は明治41年(1908)に、小型の蒸気機関車が牽引する軽便鉄道に進化し、大正12年(1923)の関東大震災で壊滅的打撃を受け、廃線となるまで温泉客の送迎に活用されました。
湯河原駅開業100周年、東海道線開通90年
大震災の翌年大正13年(1924)10月に国鉄熱海線湯河原駅が開業し、半年後に熱海駅まで全線が開通しました。行き止まりの熱海線は、難工事の末丹那トンネルが貫通し、昭和9年(1934)12月東海道線に昇格しました。湯河原温泉は交通アクセスの飛躍改善により、大きな発展期を迎えることができました。