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関東大震災が呼び起こした歴史の真実【歴旅コラム】

関東大震災が呼び起こした歴史の真実【歴旅コラム】

史跡・天然記念物「旧相模川橋脚」

  • 史跡・天然記念物標柱
国道一号(旧東海道)を平塚方面に向かうと、相模川馬入橋の手前左手に、中世の遺跡「旧相模川橋脚」があります。この「旧相模川橋脚」は、歴史遺産(史跡)としての重要性に加え、関東大震災の地震状況を示す国指定の天然記念物でもあります。
  • 関東大地震で出現した橋脚
  • 大正期の整備の様子
「旧相模川橋脚」は、相模湾を震源とし関東地方に大きな被害をもたらした大正12年(1923年)9月1日の関東大震災と翌年1月15日の余震によって、小出川沿いの水田に突如木杭が出現したという全国的にもまれな遺跡です。当時の歴史学者沼田頼輔博士が『吾妻鏡』に基づき、鎌倉時代の建久9年(1198年)に源頼朝の重臣稲毛重成が、亡き妻の追善供養のために相模川に架けた橋の橋脚と考証され、大正15年(1926年)に国の史跡に指定されました。鎌倉時代に造られてから関東大震災まで700年以上も地中に眠っていた貴重な史跡ですが、もし、この時にその価値が認められていなければ、まさに「邪魔な杭」として撤去されていたかもしれません。
  • 保存池全望
  • 保存方法の概念図

その後、出現した橋脚は、池の中に保存されましたが、水上に露出した部分の腐食が進んだため、茅ヶ崎市教育委員会は平成13年(2001年)から保存整備を目的とした内容確認の発掘調査を実施しました。その結果、新たに見つかった橋杭を含めヒノキ製の橋杭が合計で10本確認され、2m間隔で3本一列に並べられ、その列が10m間隔で4列になって並んでいることが判りました。まさに鎌倉時代に作られた橋脚であると結論づけられたのです。そして、保存整備事業により保存池が作られ、橋脚は防腐処理を施されて埋め戻され、その上部に出現時の状態を表す復元模型(レプリカ) が設置されました。

また、地震によって生じた液状化現象の痕跡も確認された他、橋脚の出現状況が関東大震災の地震状況を残す遺産としても評価され、平成24年(2012年)には史跡指定に加え、国の天然記念物としての指定を受けることになりました。液状化現象の痕跡としては全国初の天然記念物指定になります。

ところで稲毛重成は、平安末期から鎌倉初期にかけて、現在の川崎市から東京都稲城市あたりの多摩丘陵地域を治めた武将で、鎌倉幕府の御家人となり、源頼朝の正室である北条政子の妹を妻に迎えています。建久6年(1195年)6月、頼朝に従って京都へ行った帰り道、美濃国(岐阜県南部付近)で妻の危篤の報を受けた重成は、急ぎ国元に戻りますが、妻の死に目に会うことはできませんでした。そして建久9 年(1198年)、亡き妻の供養のために、重成は相模川に橋を架け、その橋が完成すると盛大な落成供養の式典を開催し、頼朝もこれに参列しました。『吾妻鏡』には、式典に参列した頼朝が帰路に落馬し、その時の怪我が元で翌年1月に死去したとあります。

記事提供:NPO法人 東海道ウォークガイドの会

(記事公開日:2020/11/17)

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