癒しの湯・湯河原温泉を訪ね、その歴史を知る【歴旅コラム】
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湯河原温泉
「足柄(あしがり)の 土肥(とい)の河内(かふち)に 出(い)づる湯の 世にもたよらに 子ろが言わなくに」(湯煙を揺れる恋心に例えた恋の歌)と1200余年前に編纂された万葉集の中の一首で、湯河原温泉が詠われました。その場所は藤木川の川辺と考えられます。河原からお湯が湧き出ていたので湯河原で、大正15年町制施行の際にその小字名(こあざめい)が町名になりました。
中世には河原に湧く温泉を石で囲って浴槽とし、武士や村人が湯治場として利用していました。江戸時代には数軒の半農自炊の湯屋もでき、江戸時代後期の全国の温泉効能番付では東の小結に位置づけられました。昔から外傷や火傷に良く効くので「傷の湯」と呼ばれ、明治時代の日清・日露戦争の傷病兵の療養所にも指定されました。
軍の療養所指定で湯河原温泉の名は全国的に広まり、明治29年(1896年)に小田原・熱海間に人車鉄道が敷かれて利便性が向上した事もあり、山あいの静かな温泉郷には、伊藤博文等の政治家、東郷平八郎元帥などの将軍、国木田独歩、夏目漱石、竹内栖鳳等、文人墨客が多数訪れ、多くの文学作品にも湯河原温泉が取上げられました。
軍の療養所指定で湯河原温泉の名は全国的に広まり、明治29年(1896年)に小田原・熱海間に人車鉄道が敷かれて利便性が向上した事もあり、山あいの静かな温泉郷には、伊藤博文等の政治家、東郷平八郎元帥などの将軍、国木田独歩、夏目漱石、竹内栖鳳等、文人墨客が多数訪れ、多くの文学作品にも湯河原温泉が取上げられました。
当時の代表的な宿は天野屋旅館でしたが、その本館を改修して平成10年(1998年)、現在の湯河原美術館が開館しました。栖鳳は天野屋の敷地内に住居と画室があり、後に安井曾太郎がそこを利用しました。ここで制作した栖鳳の屏風絵「喜雀」、安井曾太郎の「赤き橋の見える風景」が湯河原美術館に展示されています。又、現代日本画家、平松礼二の作品の展示や見えるアトリエもあります。
湯河原温泉の発祥地 湯元通りのレトロな街並み、右奥には温泉街の風物詩・源泉櫓。
明治時代までは、河原の自然湧出の温泉を利用していましたが、軍の療養所指定を契機に温泉客が急増し、温泉が湧き出る量だけでは足りなくなり、まず掘り抜き井戸が掘られ、やがては数多くの井戸を更に深く掘り、揚湯ポンプを使用して湯を汲み上げるようになりました。その背景には、昭和9年(1934年)12月、待望の丹那トンネルが貫通し、東海道線が湯河原駅を通るようになり、東京からだけでなく大阪、名古屋からも来やすくなり、当地は一大発展期を迎えた事があります。
源泉の乱掘はやがて温泉資源枯渇の懸念を抱かせ、昭和31年(1956年)の町による温泉管理開始に繋がります。藤木川沿いの源泉櫓、貯湯タンク、給湯パイプは温泉資源を守る町民の努力を物語っています。
平成26年(2014年)に宿泊客減少対策として、湯河原温泉再興計画が湯元通りの街並み整備事業を手始めにスタートしました。現在進行中の万葉公園再整備工事・観光会館再築工事はその目玉です。
新しい公園は、これまでの「日本の歴史公園100選」指定を継承し、自然と温泉、歴史文化を楽しむ自然公園として「湯河原惣湯」(予定)の名の下で、令和3年(2021年)4月のリニューアルオープンを目指しています。
※写真提供:さいとう眞由美
記事提供:湯河原観光ボランティア
(記事公開日:2020/11/17)