横浜の水道物語、西谷浄水場【歴旅コラム】
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西谷浄水場
横浜の開港以来、内外からの多くの商人が集まり、外国人居留地や日本人町が築かれ、新しい街づくりが始まったが、湧水では限度があり、井戸水は海を埋め立てた場所のため塩分が強くて飲料水には適さず、飲料水を解決する事が急務の一つであった。
明治16年(1883年)、神奈川県は英国人技師ヘンリー・スペンサー・パーマーに新式水道の調査・設計を委託し、水質・地形を考慮し相模川水系(相模川・道志川)を採用、鉄管による水道水が43㎞余りを経て野毛山貯水池で浄水し、明治20年(1887年)10月に日本初の近代水道として給水が開始された。そして、明治23年(1890年)に県から横浜市に移管された。
その後、横浜市の人口増加は止まらず、満足な給水が追い付かなくなり、さらに明治30年代に、保土ケ谷地区への石油関連・紡績・麦酒・化学等の工場進出で水道の需要増が見込まれていた。そのため、これらに対応し安定した給水を目指して、明治43年(1910年)に横浜第二次水道拡張工事に着手し、大正4年(1915年)に、ポンプを使用しない標高差を活用した自然流下系の西谷浄水場が完成した。
明治16年(1883年)、神奈川県は英国人技師ヘンリー・スペンサー・パーマーに新式水道の調査・設計を委託し、水質・地形を考慮し相模川水系(相模川・道志川)を採用、鉄管による水道水が43㎞余りを経て野毛山貯水池で浄水し、明治20年(1887年)10月に日本初の近代水道として給水が開始された。そして、明治23年(1890年)に県から横浜市に移管された。
その後、横浜市の人口増加は止まらず、満足な給水が追い付かなくなり、さらに明治30年代に、保土ケ谷地区への石油関連・紡績・麦酒・化学等の工場進出で水道の需要増が見込まれていた。そのため、これらに対応し安定した給水を目指して、明治43年(1910年)に横浜第二次水道拡張工事に着手し、大正4年(1915年)に、ポンプを使用しない標高差を活用した自然流下系の西谷浄水場が完成した。
*旧整水室上屋と旧配水計量室上屋の外壁は横黒・鼻黒煉瓦を使用している
西谷浄水場は、横浜のほぼ中心地で標高72mの高台に位置し、ランドマークタワー、新市庁舎や、晴れた日には新宿副都心の高層ビル群が望める見晴らしの良い展望台が自慢の一つだ。また、春先には桜が大変美しく、来訪者と水道とのふれあいの場として親しまれている。
近郊には、保土ケ谷の秘境で横浜唯一の渓谷である「陣ヶ下渓谷」や、大正8年(1919年)に進出した日本カーリット株式会社保土ケ谷工場跡地につくられた、「たちばなの丘公園」などがある。
なお、良質な水道水の安定給水を確保するため、今後約20年かけて導水管の整備、新旧設備のリニューアル等を順次切り替えていく予定だ。
記事提供:NPO法人 保土ヶ谷ガイドの会
(記事公開日:2020/11/17)