海老名のおすすめ史跡・文化財【歴旅コラム】
相模国分寺僧寺跡・相模国分寺尼寺跡(国指定史跡)
天平13年(741年)、聖武天皇は「鎮護国家」を目的として「国分寺建立の詔」を発し、諸国68ヶ所に国分寺、国分尼寺を併せて建立するよう命じました。
相模国では海老名の地を選び、諸国国分寺の中でも、武蔵・陸奥と並んで全国最大規模の国分寺を造営しました。
国分寺、国分尼寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺」と「法華滅罪之寺」で、奈良の東大寺(聖武天皇創建)、法華寺(光明皇后創建)がそれぞれ総国分寺、総国分尼寺とされました。
創建年代は出土した瓦の分析や発掘で得られた資料から、8世紀中頃に完成されたと思われます。
大正10年(1921年)3月3日に国指定史跡に認定されました。
北方約500mには、相模国分尼寺跡があります。
国分寺、国分尼寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺」と「法華滅罪之寺」で、奈良の東大寺(聖武天皇創建)、法華寺(光明皇后創建)がそれぞれ総国分寺、総国分尼寺とされました。
創建年代は出土した瓦の分析や発掘で得られた資料から、8世紀中頃に完成されたと思われます。
大正10年(1921年)3月3日に国指定史跡に認定されました。
北方約500mには、相模国分尼寺跡があります。
秋葉山古墳群(国指定史跡)
秋葉山古墳群は、海老名市内で最も高い座間丘陵の頂部(標高84.6m)に位置します。
西に相模川が流れ、その向こうに大山が見える眺めの良い場所に古墳が造られたと考えられます。
西に相模川が流れ、その向こうに大山が見える眺めの良い場所に古墳が造られたと考えられます。
古墳時代前期から中期前半(3世紀後半~4世紀前半)にかけて継続的に造られた墳墓群であり、年代が古い順に第3号墳、第4号墳、第2号墳、第5号墳、第1号墳となります。
最も古い第3号墳が古墳の初現期である3世紀後半に築造されたことや前方後円墳への定型化の様子が第1・2号墳などの変遷で確認できることが評価され、平成17年(2005年)に国指定史跡となりました。
最も古い第3号墳が古墳の初現期である3世紀後半に築造されたことや前方後円墳への定型化の様子が第1・2号墳などの変遷で確認できることが評価され、平成17年(2005年)に国指定史跡となりました。
国分寺の銅鐘
国分寺の釣鐘は、薬師堂が国分尼寺と一緒に裏の丘にあった頃、この地に居館を構えていた海老名氏の一族の源(国分)季頼が国分尼寺に寄進したものと言われています。
銅鐘の製作者、物部国光は鎌倉の円覚寺や金沢の称名寺の梵鐘も作った当時の名工でした。
現在の鐘楼は昭和51年(1976年)に旧薬師院の礎石を利用して再建されています。
銅鐘の製作者、物部国光は鎌倉の円覚寺や金沢の称名寺の梵鐘も作った当時の名工でした。
現在の鐘楼は昭和51年(1976年)に旧薬師院の礎石を利用して再建されています。
尼の泣き水供養碑
尼の泣き水伝説 ~ 若き尼の 恋物語 尼の泣き水
天平13年(741年)、聖武天皇の詔によって建てられた相模国分寺の塔は、燦然として朝日に輝き夕日に映えてその美しい姿を入り海に反映し、さながら極楽浄土を思わせるものがあった。しかし、国分寺が建立される前はあれほどよく取れていた魚が全く取れなくなり、里の漁師は今日もまた空の魚籠を下げて帰ってきた。水に映える国分寺の建物の輝きにおびえて、魚がみんな外海へ逃げてしまったからである。あの国分寺さえなければと、女心の浅はかさから、漁師の恋人であった尼寺の尼は、風の強く吹く晩国分寺に放火した。強風にあおられて堂塔伽藍は一晩のうちに焼け落ちてしまった。尼はすぐに捕らえられ、首だけ出して道端に埋められ、竹鋸引きの刑に処せられ、通行人にひと引きずつ首を引かれて死んでいった。その悲しみが地にしみ込んで、今もなお高い台地のはずれから、水がひとしずくずつ涙のように滴り落ちているという。
この尼の涙が湧き出るという池は、海老名小学校の真上で台地が西に傾斜する所の土手の裾にあった。小さな池で、岡の頂に近い所で水が湧き、夏の日照りにも枯れず、住民も不思議に思っていたのだと言う。
江戸時代・元禄11年(1698年)に、国分寺の住職・法印隆意が、過ちを悔い改めた尼僧を哀れんで如意輪観音像を造り尼の泣き水の場所に建立したが、今は現国分寺の境内に移されている。
天平13年(741年)、聖武天皇の詔によって建てられた相模国分寺の塔は、燦然として朝日に輝き夕日に映えてその美しい姿を入り海に反映し、さながら極楽浄土を思わせるものがあった。しかし、国分寺が建立される前はあれほどよく取れていた魚が全く取れなくなり、里の漁師は今日もまた空の魚籠を下げて帰ってきた。水に映える国分寺の建物の輝きにおびえて、魚がみんな外海へ逃げてしまったからである。あの国分寺さえなければと、女心の浅はかさから、漁師の恋人であった尼寺の尼は、風の強く吹く晩国分寺に放火した。強風にあおられて堂塔伽藍は一晩のうちに焼け落ちてしまった。尼はすぐに捕らえられ、首だけ出して道端に埋められ、竹鋸引きの刑に処せられ、通行人にひと引きずつ首を引かれて死んでいった。その悲しみが地にしみ込んで、今もなお高い台地のはずれから、水がひとしずくずつ涙のように滴り落ちているという。
この尼の涙が湧き出るという池は、海老名小学校の真上で台地が西に傾斜する所の土手の裾にあった。小さな池で、岡の頂に近い所で水が湧き、夏の日照りにも枯れず、住民も不思議に思っていたのだと言う。
江戸時代・元禄11年(1698年)に、国分寺の住職・法印隆意が、過ちを悔い改めた尼僧を哀れんで如意輪観音像を造り尼の泣き水の場所に建立したが、今は現国分寺の境内に移されている。
龍峰寺の千手観音菩薩像(国指定重要文化財)
千手観音菩薩像
千手観音菩薩像は、平安時代の特徴を持っているが、眼に水晶をはめ込む技法などから、鎌倉末期頃の作と見られています。
カヤ材の一木造りで、像の高さは約192cm、十一面四十二本の千手観音です。
左右脇手のうちから各一手を頭上に高く組み、掌の上に阿弥陀如来の化仏一体を安置していて、この形は、清水寺式千手観音と呼ばれています。
龍峰寺の他には京都市・清水寺、岩手県・中尊寺観音院に安置されており、極めて珍しい仏像です。
千手観音菩薩像は、正月元旦と大祭の3月17日の二回、一般公開されています。
記事提供:NPO法人 海老名ガイド協会
(記事公開日:2020/11/17)