横浜市港北区 西方寺の彼岸花【歴旅コラム】
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西方寺
真言宗「補陀落山 安養院 西方寺」《市営地下鉄ブルーライン「新羽駅」徒歩5 分》
西方寺縁起
西方寺は建久年間(1190年~1198年、源頼朝公在世の頃)鎌倉の笹目ヶ谷に創建され、開山は醍醐三宝院座主、奈良東大寺の別当の勝賢僧正。のちに北条重時が忍性菩薩を招き鎌倉に極楽寺を創設するにあたり極楽寺の一山の中に移された。極楽寺は施薬院など医療施設をも含む広大な大伽藍でしたが、戦禍や天災に遭いその多くを失い、時代も足利の時代になり縮小され、西方寺も当地新羽に移建された。
明応年間(1492年~1501年)、今から約500年前の事です。
現在の本堂は江戸時代の享保6年(1721年)、今から約300年前の創建。鐘楼は宝永5年(1708年)、山門は弘化年間(1844~1847年)の創建で、いずれも平成9年(1997年)に横浜市の文化財に指定された。本堂は平成15年(2003年)より解体修復が行われ、平成19年(2007年)に完成し、山門・鐘楼の屋根は平成20年(2008年)に葺き替えられた。
本尊の阿弥陀如来坐像は、平安時代後期の作で、県指定重要文化財となっている。西芳寺が鎌倉にあった頃は、金箔が施されており、その輝きで魚が取れなくなってしまった漁師が、全身に経文を書きながら墨で塗りつぶしたのだと伝えられ、「西方寺の黒本尊」と呼ばれている。
十一面観世音菩薩像は、西方寺が移転する前から祀られていたという安産祈願の観音様。令和2年(2020年)4月に、12年に一度の御開帳があった。旧小机領三十三所子年観音霊場十五番札所である。
また、境内には12 基の小さな五輪塔がある。時代は不明だが、ひっそりと寄り添い並んでいる。
本尊の阿弥陀如来坐像は、平安時代後期の作で、県指定重要文化財となっている。西芳寺が鎌倉にあった頃は、金箔が施されており、その輝きで魚が取れなくなってしまった漁師が、全身に経文を書きながら墨で塗りつぶしたのだと伝えられ、「西方寺の黒本尊」と呼ばれている。
十一面観世音菩薩像は、西方寺が移転する前から祀られていたという安産祈願の観音様。令和2年(2020年)4月に、12年に一度の御開帳があった。旧小机領三十三所子年観音霊場十五番札所である。
また、境内には12 基の小さな五輪塔がある。時代は不明だが、ひっそりと寄り添い並んでいる。
新羽(にっぱ)の地名の由来
鶴見川の舟運で、荷物を揚げ下ろしする荷場「にば」が転じて新羽「にっぱ」となったという説と、「新」は開墾地、「羽」は端で山の端、丘が鶴見川に向かって突き出ている地形から、丘陵の先に開墾した土地ということで新羽となったとの説がある。「西方寺は極楽寺から船で鶴見川を遡り、新羽の地に建てられた。」との言い伝えが残っており、鶴見川は、上げ潮の時には新羽の辺りまで川の水が逆流し、船の通運で賑わっていたのである。
鎌倉への道?
中世、陸路で新羽から鎌倉への往来は、鶴見川を越え、大倉山、菊名、岸根へと続く「下の道」を利用したのだろうか。文明18年(1486年)、聖護院門跡の道興准后(どうこうじゅごう)は、京都を発ち、関東各地を行脚し鎌倉へ向かう途中、駒林から、新羽、かたびらの里へ行ったと「廻国雑記(かいこくざっき)」に記している。小さな道が幾つかあったのかも知れない。新羽を中心に、鎌倉への道筋を推理しながら歩くのも楽しい。
西方寺は花の寺
秋の彼岸花を楽しんだら、春は早咲きの桜で、お彼岸の頃に咲く「中日桜」。夏はつつじ・あやめ。冬の蝋梅も有名で、檀家さんが苦労し挿し木で増やした「満月蝋梅」。境内が蝋梅の香りでいっぱいになる。またぜひ来たい。
記事提供:NPO法人 神奈川歴遊クラブ
(記事公開日:2020/12/18)