金剛寺、飯山観音長谷寺
INDEX
厚木の安達藤九郎盛長の墓とゆかりの地
厚木市は神奈川県県央部に位置しており、現在放送中のNHK大河ドラマ「鎌倉殿13人」にも登場する「安達盛長」にまつわる場所があります。
【安達藤九郎盛長(1153~1200)】
安達盛長は、源頼朝が伊豆(蛭ヶ小島)に配流されていた時代から側近として頼朝に仕えていました。頼朝の乳母・比企尼の娘を妻に迎えるなど信頼が厚かったようです。また、京都にも知り合いが多く、朝廷の情報を頼朝に伝え、頼朝と北条政子の間を取り持ちました。官職には就かず、頼家時代に十三人の合議制に参加していました。晩年は剃髪して蓮西と号し、正治二年六十六歳で亡くなりました。
【安達藤九郎盛長(1153~1200)】
安達盛長は、源頼朝が伊豆(蛭ヶ小島)に配流されていた時代から側近として頼朝に仕えていました。頼朝の乳母・比企尼の娘を妻に迎えるなど信頼が厚かったようです。また、京都にも知り合いが多く、朝廷の情報を頼朝に伝え、頼朝と北条政子の間を取り持ちました。官職には就かず、頼家時代に十三人の合議制に参加していました。晩年は剃髪して蓮西と号し、正治二年六十六歳で亡くなりました。
金剛寺
【飯山郷】
金剛寺は華厳山遍照院金剛寺と言い開基は弘法大師と伝えられています。平安時代後期の国指定重要文化財「木造阿弥陀如来坐像」と正安元年(1299)作の県指定重要文化財「木造地蔵菩薩坐像」、市指定有形文化財の鎌倉期の銅碗などがあります。
金剛寺(現在は曹洞宗)は平安時代には金澤称名寺・鎌倉覚園寺・京都泉涌寺と深いかかわりを持ち、鎌倉時代の『吾妻鏡』に記載もある中世の相模国では律宗の中心となった寺院で、江戸時代建築の大師堂も残されています。
金剛寺は華厳山遍照院金剛寺と言い開基は弘法大師と伝えられています。平安時代後期の国指定重要文化財「木造阿弥陀如来坐像」と正安元年(1299)作の県指定重要文化財「木造地蔵菩薩坐像」、市指定有形文化財の鎌倉期の銅碗などがあります。
金剛寺(現在は曹洞宗)は平安時代には金澤称名寺・鎌倉覚園寺・京都泉涌寺と深いかかわりを持ち、鎌倉時代の『吾妻鏡』に記載もある中世の相模国では律宗の中心となった寺院で、江戸時代建築の大師堂も残されています。
大師堂脇には安達盛長の墓と伝えられている石造物群があり、当寺には位牌が安置されています。頼朝の側近で鎌倉の長谷に住んでいた安達盛長は当寺を訪れており、後に遺骨が埋葬されたと伝えられております。
新編相模国風土記稿では、『安達藤九郎盛長墓 五輪の塔なり 寺伝に法名「盛長院三空道無大居士」と号す、治承の頃盛長当地に来たり霊地なるを感じ、卒後其遺骨を送りて葬すと云う』と、記載されています。
新編相模国風土記稿では、『安達藤九郎盛長墓 五輪の塔なり 寺伝に法名「盛長院三空道無大居士」と号す、治承の頃盛長当地に来たり霊地なるを感じ、卒後其遺骨を送りて葬すと云う』と、記載されています。
長谷寺
金剛寺に隣接して、飯山観音長谷寺があります。安達一族は、幕府から秋田城介の職を賜り、頼朝によって坂東三十三観音の観音堂の造営を命じられたともいわれています。第六番札所の長谷寺は通称飯山観音と呼ばれ “飯山の観音さん”“縁結びの観音さん”と言われて親しまれ 巡礼者など参拝客が訪れます。春の桜やアジサイ・秋の紅葉など花と自然を楽しむことが出来ます。
三田の鎮守・八幡神社
【三田郷】
三田地区には鎮守様八幡神社があり創建は不明ですが建久三年(1192)に安達盛長が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して再建したと伝えられています。
その後明暦四年(1658)再建され現在の本殿は元禄三年(1690)旧領主旗本川口氏の寄進により建造されました。
三田地区には鎮守様八幡神社があり創建は不明ですが建久三年(1192)に安達盛長が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して再建したと伝えられています。
その後明暦四年(1658)再建され現在の本殿は元禄三年(1690)旧領主旗本川口氏の寄進により建造されました。
新編相模国風土記稿には、『建久の頃は安達藤九郎盛長領主たりしと云い傳ふ 盛長が墓村内にあり。八幡社 村の鎮守なり、安達藤九郎盛長勧請すと云い傳ふ』と、記載があります。
記事提供:あつぎ観光ボランティアガイド協会
(記事公開日:2022/3/18)