【かながわ東海道】宿場町について知ろう!
東海道の成り立ちとは?
7世紀後半、天武天皇の時代に諸国の国境が確定されて以降、畿内七道制が成立したとされています。中央の都を中心に土地・人民を支配する律令国家は、諸国を畿内と七道に分けました。畿内五国(大和・山城(山背)・摂津・河内・和泉)と東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の七道で、このうちの一つが東海道です。七道は官道と地域区画、双方の意味合いを持っていました。官道としての東海道は情報や命令の伝達路であり、さらには税の貢納、役人の赴任や軍隊の派遣などのために、都と各国の国府(国司が政務を執った役所を中心とする都市)を結んでいました。駅家が設けられ、古くから日本における主要街道として、多くの人々が行き来しました。
徳川家康と東海道
徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利したことで、東海道は飛躍的に発展し、日本の大動脈となりました。関ヶ原の翌年、慶長6(1601)年に家康は、幕府の開設よりも前に主な街道の整備強化に乗り出しました。具体的には流通拠点となる宿駅を設け、「御伝馬之定」と「伝馬朱印状」を交付し、乗り継ぎ用の伝馬を設置しました。これによって東海道宿駅伝馬制が確立したとされ、朝廷や豊臣方の居城がある上方との情報伝達の迅速化や、幕府役人や各大名の公文書、荷物の運搬の円滑化が進みました。当初は軍用面の色彩も濃く、要所に関所を設け、大河川の架橋を禁止するなどしましたが、参勤交代などによって通行量が増えていくと、宿場などの整備が進み、観光ルートとしても発展しました。
神奈川県の東海道9宿~特徴と見どころ~ ①川崎宿
神奈川県立歴史博物館所蔵
〜六郷の渡しを越えて寺社の点在する宿場へ〜
川崎宿は東海道五十三次2番目の宿場。川崎宿の起立は元和9(1623)年。江戸幕府が東海道の駅伝馬制を定め、諸駅を設置した慶長6(1601)年から遅れること22年後にようやく、川崎宿は開宿されました。これには、品川宿と神奈川宿の間が往復十里に及び、伝馬(交通・通信手段)の負担が重く、この軽減を図るために品川・神奈川両宿が幕府に請願し、新駅として設置されたという事情があります。江戸方面からの玄関は川辺で、六郷川(多摩川)を越える「六郷の渡し」から始まり、宿場の東に位置する川崎大師への参詣客で大いに栄えました。現在は旧街道の一部で電線類が地下化され、ガイド表示も充実し、往時の宿場に思いを馳せながら散策することができます。
〜六郷の渡しを越えて寺社の点在する宿場へ〜
川崎宿は東海道五十三次2番目の宿場。川崎宿の起立は元和9(1623)年。江戸幕府が東海道の駅伝馬制を定め、諸駅を設置した慶長6(1601)年から遅れること22年後にようやく、川崎宿は開宿されました。これには、品川宿と神奈川宿の間が往復十里に及び、伝馬(交通・通信手段)の負担が重く、この軽減を図るために品川・神奈川両宿が幕府に請願し、新駅として設置されたという事情があります。江戸方面からの玄関は川辺で、六郷川(多摩川)を越える「六郷の渡し」から始まり、宿場の東に位置する川崎大師への参詣客で大いに栄えました。現在は旧街道の一部で電線類が地下化され、ガイド表示も充実し、往時の宿場に思いを馳せながら散策することができます。
神奈川県の東海道9宿~特徴と見どころ~ ②神奈川宿
神奈川県立歴史博物館所蔵
〜街道と水上交通の要衝、風光明媚な宿場〜
神奈川宿は、現在の神奈川本町を中心として横浜駅西口付近に及ぶ大宿で、街道の両脇には旅籠や家々が軒を連ねていました。また、東に海を臨み、東海道有数の景勝地として知られた「袖ヶ浦」という入江がありました。隣接する神奈川湊は鎌倉時代に開かれた要港で、江戸をはじめ房総半島や三浦半島などと結び、人や物が行き交う水上交通の要衝でした。日米修好通商条約では開港の場として定められ、日本で最初の公使館が置かれました。今も残る台場跡や関門跡、現存する料亭田中屋などにその繁栄ぶりを垣間見ることができます。神奈川宿は江戸内湾を臨むことができる最後の場所で、西へ行く者にとっては日常との惜別の場所であったのかもしれません。
〜街道と水上交通の要衝、風光明媚な宿場〜
神奈川宿は、現在の神奈川本町を中心として横浜駅西口付近に及ぶ大宿で、街道の両脇には旅籠や家々が軒を連ねていました。また、東に海を臨み、東海道有数の景勝地として知られた「袖ヶ浦」という入江がありました。隣接する神奈川湊は鎌倉時代に開かれた要港で、江戸をはじめ房総半島や三浦半島などと結び、人や物が行き交う水上交通の要衝でした。日米修好通商条約では開港の場として定められ、日本で最初の公使館が置かれました。今も残る台場跡や関門跡、現存する料亭田中屋などにその繁栄ぶりを垣間見ることができます。神奈川宿は江戸内湾を臨むことができる最後の場所で、西へ行く者にとっては日常との惜別の場所であったのかもしれません。
神奈川県の東海道9宿~特徴と見どころ~ ③保土ケ谷宿
神奈川県立歴史博物館所蔵
〜東海道の難所「権太坂」の前にひと休み〜
保土ケ谷宿は、江戸を出て最初の難所となる急坂「権太坂」に続く坂路をひかえた宿場です。当時の旅人にとって「権太坂」を登るつらさは厳しいもので、旅人の多くは保土ケ谷宿で休息してから坂越えに挑んだと言われています。日本橋から八里九町(約33km)のところに位置する武蔵国最西端の宿で、坂を越えると相模国となります。武州と相州の国境に建つのが境木地蔵尊で当時、茶屋が並び、名物の「牡丹餅」が売られていたと言います。ここは坂を上りきり、神奈川の海や富士山の遠景を臨みながら旅人がひと息ついた場所で、坂を下ると今も往時の姿を留める「品濃一里塚」があります。保土ケ谷にはまた金沢道などの分岐点があり、その道標も現存しています。
〜東海道の難所「権太坂」の前にひと休み〜
保土ケ谷宿は、江戸を出て最初の難所となる急坂「権太坂」に続く坂路をひかえた宿場です。当時の旅人にとって「権太坂」を登るつらさは厳しいもので、旅人の多くは保土ケ谷宿で休息してから坂越えに挑んだと言われています。日本橋から八里九町(約33km)のところに位置する武蔵国最西端の宿で、坂を越えると相模国となります。武州と相州の国境に建つのが境木地蔵尊で当時、茶屋が並び、名物の「牡丹餅」が売られていたと言います。ここは坂を上りきり、神奈川の海や富士山の遠景を臨みながら旅人がひと息ついた場所で、坂を下ると今も往時の姿を留める「品濃一里塚」があります。保土ケ谷にはまた金沢道などの分岐点があり、その道標も現存しています。
神奈川県の東海道9宿~特徴と見どころ~ ➃戸塚宿
神奈川県立歴史博物館所蔵
〜早朝に江戸を出立した旅人の宿泊地〜
戸塚宿は慶長6(1601)年の駅伝馬制開設に3年遅れて開かれた宿場です。保土ケ谷宿と藤沢宿の間が長いことや「品濃坂」や「大坂」の難所があったことが開宿の理由でした。また、日本橋から十里半(約42km)の距離にあり、江戸を七つどき(午前4時頃)に出立すると、戸塚はその夜の宿泊地に最適でした。大山道・鎌倉往還との分岐点でもあり、旅籠の数が盛時には75軒あったと言われています。神奈川県内では小田原宿に次いで2番目の規模であり、大変な賑わいをみせました。戸塚宿の二大本陣の一つ、澤邊本陣近くに鎮座する富塚八幡宮は、戸塚の地名の由来にもなった社で、「お天王さま」として親しまれている八坂神社とともに戸塚宿の鎮守として街道を行き交う人々を今も見守ります。
〜早朝に江戸を出立した旅人の宿泊地〜
戸塚宿は慶長6(1601)年の駅伝馬制開設に3年遅れて開かれた宿場です。保土ケ谷宿と藤沢宿の間が長いことや「品濃坂」や「大坂」の難所があったことが開宿の理由でした。また、日本橋から十里半(約42km)の距離にあり、江戸を七つどき(午前4時頃)に出立すると、戸塚はその夜の宿泊地に最適でした。大山道・鎌倉往還との分岐点でもあり、旅籠の数が盛時には75軒あったと言われています。神奈川県内では小田原宿に次いで2番目の規模であり、大変な賑わいをみせました。戸塚宿の二大本陣の一つ、澤邊本陣近くに鎮座する富塚八幡宮は、戸塚の地名の由来にもなった社で、「お天王さま」として親しまれている八坂神社とともに戸塚宿の鎮守として街道を行き交う人々を今も見守ります。
神奈川県の東海道9宿~特徴と見どころ~ ⑤藤沢宿
神奈川県立歴史博物館所蔵
〜大山や江の島へ繋がる交通の要衝〜
藤沢は東海道五十三次の駅伝馬制が始まるよりも前に、時宗の総本山「遊行寺(清浄光寺)」の門前町として栄えていました。北条早雲に始まる北条(後北条)時代は、小田原城と支城の江戸城や八王子城、玉縄城を結ぶ小田原街道の分岐点として、北条氏の関東支配の拠点ともなっていました。北条氏滅亡後、家康が関東に入ると、藤沢には御殿と陣屋が置かれ、関東支配の地盤が固められました。藤沢宿は東海道、大山道、江の島道、八王子道などが集まる宿場町として発展します。江戸時代後期には地域の産物の流通の中継地となり、ますます繁栄しました。奥州平泉で戦死した源義経の首を洗ったと伝えられる井戸や義経を祭神として祀る白旗神社など多くの史跡が遺っています。
〜大山や江の島へ繋がる交通の要衝〜
藤沢は東海道五十三次の駅伝馬制が始まるよりも前に、時宗の総本山「遊行寺(清浄光寺)」の門前町として栄えていました。北条早雲に始まる北条(後北条)時代は、小田原城と支城の江戸城や八王子城、玉縄城を結ぶ小田原街道の分岐点として、北条氏の関東支配の拠点ともなっていました。北条氏滅亡後、家康が関東に入ると、藤沢には御殿と陣屋が置かれ、関東支配の地盤が固められました。藤沢宿は東海道、大山道、江の島道、八王子道などが集まる宿場町として発展します。江戸時代後期には地域の産物の流通の中継地となり、ますます繁栄しました。奥州平泉で戦死した源義経の首を洗ったと伝えられる井戸や義経を祭神として祀る白旗神社など多くの史跡が遺っています。
神奈川県の東海道9宿~特徴と見どころ~ ⑥平塚宿
神奈川県立歴史博物館所蔵
〜東に相模川、西に高麗山を臨む宿場〜
江戸方面からの旅人は、美しい光景を眺めながら平塚宿に入りました。松並木が続く先に丸々とした山稜が特徴的な高麗山がそびえ、右手には丹沢と大山、遥か彼方に霊峰・富士山を臨んでいました。東西にまっすぐ延びた道に沿って旅籠などが軒を連ね、寛永12(1635)年に参勤交代が制度化されると通行量は激増し、東側に隣接する八幡村の一部を平塚新宿として加宿しました。宿場内には平塚八幡宮や、宿場の鎮守として街道を見守る、北条政子安産祈願の春日神社、地名由来の塚の碑近くにある要法寺などが建っています。宿泊客を増やそうと「あの山を越えねば大磯にはいけない。ちょいとお泊まりよ」と留女が偽りを言って旅人を引き留めたそうです。
〜東に相模川、西に高麗山を臨む宿場〜
江戸方面からの旅人は、美しい光景を眺めながら平塚宿に入りました。松並木が続く先に丸々とした山稜が特徴的な高麗山がそびえ、右手には丹沢と大山、遥か彼方に霊峰・富士山を臨んでいました。東西にまっすぐ延びた道に沿って旅籠などが軒を連ね、寛永12(1635)年に参勤交代が制度化されると通行量は激増し、東側に隣接する八幡村の一部を平塚新宿として加宿しました。宿場内には平塚八幡宮や、宿場の鎮守として街道を見守る、北条政子安産祈願の春日神社、地名由来の塚の碑近くにある要法寺などが建っています。宿泊客を増やそうと「あの山を越えねば大磯にはいけない。ちょいとお泊まりよ」と留女が偽りを言って旅人を引き留めたそうです。
神奈川県の東海道9宿~特徴と見どころ~ ⑦大磯宿
神奈川県立歴史博物館所蔵
〜松並木を渡る風と波音に満ちた宿場町〜
高麗山麓の高麗寺(現・高来神社)門前にはかつて遊里があり、東海道宿駅制成立以前から賑わっていたと言います。やがて大磯が東海道五十三次の宿となり、海沿いの街道に人家が移転し、新たな宿場町が形成され、松並木も整備されました。現在でも化粧坂付近の山王町の旧道や大磯中学校前など、道中のいたるところに松並木が見られます。宿場内に建つ延台寺には、鎌倉時代の仇討ち話「曽我物語」の曽我十郎と遊女・虎御前の悲恋を伝える「虎御石」の伝説が残ります。また、小田原寄りの街道に臨む位置に鎮座する六所神社は、戦国大名・北条氏や江戸幕府の歴代将軍から崇敬を集めた相模国の総社。千年の歴史を誇る相模国6社の神輿が勢ぞろいする「国府祭」が毎年5月に、古式にのっとり行われます。
〜松並木を渡る風と波音に満ちた宿場町〜
高麗山麓の高麗寺(現・高来神社)門前にはかつて遊里があり、東海道宿駅制成立以前から賑わっていたと言います。やがて大磯が東海道五十三次の宿となり、海沿いの街道に人家が移転し、新たな宿場町が形成され、松並木も整備されました。現在でも化粧坂付近の山王町の旧道や大磯中学校前など、道中のいたるところに松並木が見られます。宿場内に建つ延台寺には、鎌倉時代の仇討ち話「曽我物語」の曽我十郎と遊女・虎御前の悲恋を伝える「虎御石」の伝説が残ります。また、小田原寄りの街道に臨む位置に鎮座する六所神社は、戦国大名・北条氏や江戸幕府の歴代将軍から崇敬を集めた相模国の総社。千年の歴史を誇る相模国6社の神輿が勢ぞろいする「国府祭」が毎年5月に、古式にのっとり行われます。
神奈川県の東海道9宿~特徴と見どころ~ ⑧小田原宿
神奈川県立歴史博物館所蔵
〜街道一の規模を誇る宿場町に多くの名産品〜
箱根の険を背にした小田原は、戦国時代に小田原・北条氏の拠点として街づくりがされ発展しました。居城は東海道北側にそびえる八幡山を利用し、幾層もの曲輪が配され、大規模な空堀と土塁で囲まれました。戦国時代における最大規模の城でしたが、江戸時代に城の中心が山側から街道側に移り、城主・大久保氏が近世城郭に発展させ、幕府の防衛拠点として睨みをきかせていました。旅人は西の箱根を越える前、あるいは東の酒匂川を渡る前に小田原に投宿し、明日の旅程に備えたと言います。それもあって、旅人向けの土産物屋や食事処、日用品や生鮮食料品を扱う商人家も活況を呈したそうです。いまでも戦国時代以来の伝統を引き継ぎ、かまぼこの老舗や鋳物、塗物、木工品などが名産品となっています。
〜街道一の規模を誇る宿場町に多くの名産品〜
箱根の険を背にした小田原は、戦国時代に小田原・北条氏の拠点として街づくりがされ発展しました。居城は東海道北側にそびえる八幡山を利用し、幾層もの曲輪が配され、大規模な空堀と土塁で囲まれました。戦国時代における最大規模の城でしたが、江戸時代に城の中心が山側から街道側に移り、城主・大久保氏が近世城郭に発展させ、幕府の防衛拠点として睨みをきかせていました。旅人は西の箱根を越える前、あるいは東の酒匂川を渡る前に小田原に投宿し、明日の旅程に備えたと言います。それもあって、旅人向けの土産物屋や食事処、日用品や生鮮食料品を扱う商人家も活況を呈したそうです。いまでも戦国時代以来の伝統を引き継ぎ、かまぼこの老舗や鋳物、塗物、木工品などが名産品となっています。
神奈川県の東海道9宿~特徴と見どころ~ ⑨箱根宿
神奈川県立歴史博物館所蔵
〜東海道随一の難所、天下の険を擁する宿場〜
箱根宿は人の住まない芦ノ湖畔の荒れた原野に新設されました。街道最大の難所、箱根の山越えの不便さの解消を求める西国大名の「箱根にも宿場を」という声を受け、元和4(1618)年に設置、小田原・三島の両宿から50軒ずつ(約600名)を強制的に移住させて開かれたと言われています。標高は700mを越え、東海道でもっとも高所の宿場町となりました。「入り鉄砲に出女」と言う、銃火器の江戸流入と江戸に住まわせた西国大名子女の江戸からの逃亡を防止することでも知られる「箱根関所」は、宿場新設と同時に芦ノ湖畔に移動したと言われています。延宝8(1680)年頃より石畳が敷かれ、「昼なお暗き杉並木」と唱歌にも歌われた杉が沿道に植えられ、いまも旅人を見つめています。
〜東海道随一の難所、天下の険を擁する宿場〜
箱根宿は人の住まない芦ノ湖畔の荒れた原野に新設されました。街道最大の難所、箱根の山越えの不便さの解消を求める西国大名の「箱根にも宿場を」という声を受け、元和4(1618)年に設置、小田原・三島の両宿から50軒ずつ(約600名)を強制的に移住させて開かれたと言われています。標高は700mを越え、東海道でもっとも高所の宿場町となりました。「入り鉄砲に出女」と言う、銃火器の江戸流入と江戸に住まわせた西国大名子女の江戸からの逃亡を防止することでも知られる「箱根関所」は、宿場新設と同時に芦ノ湖畔に移動したと言われています。延宝8(1680)年頃より石畳が敷かれ、「昼なお暗き杉並木」と唱歌にも歌われた杉が沿道に植えられ、いまも旅人を見つめています。
東海道だけじゃない!脇街道とは?
江戸時代、現在の神奈川県の幹線道路は東海道でしたが、ここから分かれて各地に向かう道として「脇街道」がありました。脇街道が縦横につながることで、多くの人々や物資が行き交いました。それぞれの脇街道の歴史は古く、家康の五街道整備よりも前に開かれた道も多くあります。鎌倉街道は「いざ鎌倉」のルートで、地域の人々の生活道路も兼ねていました。江戸から大山への参詣ルートとして賑わった大山道は、万葉の時代から東国と畿内を結んだ道で、家康が整備する前の東海道でした。矢倉沢往還とも呼ばれ、物産の輸送路としても利用されました。この他にも、平塚宿から江戸との最短ルートとして使われた中原街道、保土ケ谷宿から観光地の金沢八景に至る金沢道、横浜港へ生糸を運んだ八王子道などがあります。