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静寂に包まれた比企一族ゆかりの寺院開山は日蓮聖人、開基は比企能本(ひきよしもと)と伝えられる日蓮宗最古の寺院。鎌倉駅東口から徒歩約10分、豊かな自然と静寂に包まれた「比企谷(ひきがやつ)」の山腹に位置します。
鮮やかな朱色と美しい彫刻が施された二天門には、仏教の守護神である四天王のうちの持国天と多聞天(毘沙門天)を安置。広い境内には日蓮聖人(祖師)を祀る「祖師堂」や日蓮像のほか、比企一族の墓、蛇苦止堂(じゃくしどう)などがあります。
春には桜と海棠(かいどう)が可憐なピンク色の花を咲かせ、夏は鮮やかなオレンジ色のノウゼンカズラと、あふれんばかりの新緑に包まれます。秋にはイチョウやカエデが色づき、冬に雪が降ると水墨画のような趣ある雪景色が広がります。
事前予約制で写経体験も可能。お香の香りに包まれる書院の一室で、心静かにやすらぎの時間を過ごしてみてはいかがでしょうか。 -
和銅3年(710年)染谷太郎時忠が創建したとされる神社。源頼朝、政子、実朝も参詣したと言われています。
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紅葉と五百羅漢像で人気のスポットで、紅葉を楽しむことができます。
また、「東国花の寺百ヶ寺」に数えられる花の多い曹洞宗のお寺で、10月頃にはイワシャジンという
紫色の花が美しく咲きます。
美しく豊かな自然が広がる仙石の紅葉は、11月に入ると霧が降りることもあることから、草が色づくめずらしい
草紅葉も見られます。木々だけでなく、ススキの草原も秋の景色が見ごろです。 -
眞宗寺は浄土真宗本願寺派の寺院です。境内正面にはギリシャ神殿風の本堂、高台には黄金に輝く川崎大佛合祀墓があります。そして右手丘陵の中腹には鐘楼堂、池田満寿夫画伯の遺作となった梵鐘「しあわせの鐘」があります。
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独立峰「城山」を改造した山城で、戦国時代に、西方に対する境目の城として小田原北条氏の有力支城でした。現在はほぼ全域が県立公園となっており、遊歩道や登山道が整備されてだれでも気軽に歴史と自然を楽しむことができます。
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石段を登りきると、三浦半島を一望できます。1502年に創業され、古くより曹洞宗の修行道場として知られています。
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吉沢地区の鎮守として知られています。
上吉沢の八剱神社には大ケヤキがあり、下吉沢にある八剱神社の木造不動明王像「かんまん不動」は国指定重要文化財に指定されています。 -
天徳寺は、石橋山合戦で活躍した真田与一義忠がいた場所といわれています。その後、戦国時代前半に、相模国守護代上田氏の居城として本格的に築城され、当時は相模国の重要拠点の一つだったとされています。
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全通院勢至堂は、曹洞宗のお寺です。本尊の勢至菩薩は夢のお告げによって発掘されたとされており、江戸時代の寛永年間(1624~43)に建てられた本堂には寿老人が祀られています。
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小田原城の初代城主となった大久保忠世と11代忠真を祀っています。
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徳川家康の忠臣であった小田原城主大久保忠世公が建立したお寺です。
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境内には鎌倉時代の海老名氏一族の国分季頼が国分尼寺に寄進した銅鐘や海老名に伝わる昔話「尼の泣水」に縁のある如意輪観音像が境内に安置されています。銅鐘は国指定の重要文化財となっています。
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親鸞聖人の門弟 信楽房(しんぎょうぼう)が開基の寺。親鸞聖人の子 善鸞が東寺を聖人の旧跡と慕って滞在し、当地で往生したといい、墓所があります。
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本宮からみて西北の後方に鎮座する。 承久の乱(1221)に際して配流され、ご不運に遭われた三上皇の御霊を慰める為宝治元年(1247)に奉祀された。 御祭神:後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳上皇 例祭日:6月7日
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寛徳元年(1044年)3月10日に本堂が建立され、開山された、横浜最古の寺です。現在の本堂は、明和3年(1766年)に智光上人により再建されたものです。
本尊十一面観世音菩薩立像(ほんぞうじゅういちめんかんぜおんぼさつりつぞう)は大正4年(1915年)8月10日国宝に指定、昭和25年(1950年)8月29日 国指定重要文化財に指定されました。 -
元来、この地は入海の瀬戸(狭い海峡)のため、干満時に急流となり海上交通の難所でした。そのため、5〜6世紀の頃から海神を祀っていたとされています。
源頼朝が平家追討の挙兵に御神恩のあったことを感謝して、伊豆三島明神を勧請したのが瀬戸神社の始まりと言われています。 -
鎌倉時代の名将、新田(源)義貞を祀る神社です。
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創建は推古天皇の御代と伝えられ、大正9年(1920)年に鶴見神社と改称されました。
「川崎・横浜間最古の神社」と言われています。 -
鳳巣院は、小田原八福神の一つである寿老人を祀るお寺です。
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神奈川県西部 自然豊かな山北町にある禅宗のお寺です。
「山寺で学ぼう」として、坐禅会、写経会、お茶を愉しむ「喫茶去」が毎月第一土曜日に開かれています。 -
高野山真言宗の寺院です。開基は源実朝といわれ、藤沢宿でも最も古い寺院の一つと伝えられています。(写真提供:藤沢市ふじさわ宿交流館)
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豊臣秀吉による小田原攻めに対して北条氏が築いた総構の一部です。小田原城総構の中でも低地部にある遺跡として、貴重なものです。土塁の外側には渋取川を配し、堀としていました。
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神奈川県小田原市にある日蓮宗のお寺で、小田原八福神の1つです。小田原は戦国時代より城下町として栄え、歴史と文化を感じる史跡があふれる町です。蓮船寺は戦国時代の末期に小田原北條氏一門、井出氏の開基により創建され、400年以上の歴史が続いています。
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戦国時代に開山された曹洞宗(禅宗)の寺院です。江戸時代中期に建立された山門は寄地区で現存する最古の木造建築といわれています。江戸末期には寺子屋、明治初期には寄小学校の前身としての役割も担い、昭和の戦時中には多くの疎開児童も受入れる等 寄の地域社会とあゆみを共にしてきました。丁寧に掃き清められた境内に立つと、長い歴史を深く感じます。
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南湖院は、旧結核療養施設として明治期から本市の発展に大きな影響を与えた施設で、その価値を後世に残すため一部を「太陽の郷庭園」として一般公開しています。明治時代の木造の洋風建築や、噴水のある丸池も情緒のある景色ですが、庭園の西側から見える富士山の景色は「関東の富士見百景」に選定されるほどの美しさです。晴れた日に景色を楽しみながらゆったりと散策するのがおすすめです。
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昔は浪切不動とか白滝不動と呼ばれた寺です。境内真下の海の中に、徳富蘇峰揮毫による「不如帰」の碑が立っています。小説「不如帰」の舞台となり主人公の片岡浪江子にあやかり、浪子不動と呼ばれるようになりました。
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伊勢原駅近くの市街地にある神社で、「大神宮さん」と呼ばれ市民に親しまれています。2月3日の節分祭から始まり、春には境内の桜が見事に咲き、夏はほおずきや朝顔が並ぶ「花の市」で賑わいます。
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「勝」と「和」をご神徳とし、川崎の守り神として市民に親しまれている神社。
創建年代は詳らかではありませんが、ご神木の大銀杏は樹齢千年以上と言われています。
8月の例大祭(川崎山王祭)を始め、年間通して多くの祭事が行われます。
境内には松尾芭蕉や正岡子規など川崎ゆかりの句碑や、小土呂橋遺構など歴史・文化に関わる見所も多くあります。 -
1191年、源頼朝により創建されたと言われる歴史ある神社です。
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十一面観音を本尊とする、天平六年(734年)に創建された鎌倉最古の寺院です。
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病気やケガなどの苦しみから救ってくださる仏様として知られる「薬師如来さま」をお祀りしています。特に、縁日で振る舞われるお団子は、「お目玉さん」とも言われ、眼病に御利益があるとされます。
また、境内には、「薬師堂」をはじめ、「クスノキ」や「銅鐘」など、多くの文化財があります。・市指定有形文化財「薬師堂」現在の薬師堂は、宝暦8年(1758)に再々建されたものですが、来迎柱(厨子のまわりにある柱)は、天正12年(1584)の再建当時のものが用いられています。
本尊の御開帳60年に1度の「庚寅(かのえとら)」の年に拝観することが出来ます。次は2070年です。 -
長元3年(1030年)源頼義公が平忠常の乱を平定の折、石清水八幡宮を勧請したことに始まります。相模国茅ヶ崎の総社として開運、諸願成就等の御神徳により古より篤く崇められ、菅原道真公を合祀し合格学業成就の御利益があると言われています。
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小字でいう宮根(みやね)にあり、一色の氏神。大日霊貴命(おおひるめのみこと)をまつっています。例祭日は7月15日・16日。戦前は毎月1日・15日に、平和と氏子の健康、出征兵士の武運長久を祈る祈願祭が行われ、住民や近郷からの参拝者も多かったとされています。
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孝道山本仏殿は、国際港都・横浜の市街地やみなとみらい地区を見下ろす孝道山上にある仏教寺院です。春には250本の桜が咲き誇り、山頂にそびえ立つ二重の塔・仏舎利殿をはじめ、本堂ほか諸堂が境内に点在しています。
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平安時代の記録に記されている古社(延喜式内社・相模國三宮)で、源頼朝や徳川歴代将軍の信仰の様子がうかがえます。近隣では縄文中期の環状配石が発掘されており、この周辺が聖地とされていたことがしのばれます。境内に設けられた三之宮郷土博物館には、関東最古と伝えられる木造「狛犬」などが所蔵されています。元宮(神社から徒歩7・8分)からは相模湾を一望することができます。
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伊勢原市にある神社。上粕屋神社の旧称は「山王社」で、江戸時代の地誌『新編相模国風土記稿』には、上粕屋村の「山王社」と記載があります。
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戦国時代の終わりに豊臣秀吉との小田原合戦に備え北条氏が作らせた総構の一部で、豊臣軍の本陣と向かい合う重要な場所でした。二重外張と呼ばれる土塁と堀を二重に配した構造となっていることから、この付近に出入口である虎口があったと考えられています。